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義経資料館
源義経公之像

800年ほど前、元歴2年(1185)2月18日、九郎判官義経は、讃岐の屋島に逃れた平家を討つため、摂津(大阪)の渡辺の浦を舟出して、わずか6時間で紀伊水道を渡り阿波の勝浦(小松島市)に上陸した。
これを記念して、毎年地域の住民によって「義経夢想祭」が行われている。また義経進軍の経路とされている義経街道(約10km)を「義経ドリームロード」として、案内板・道標を設置、整備している。
ふるさと創生・郷土の歴史の理解・郷土愛を育てるため、また、観光資源として「源義経公之像」を旗山の頂に市内篤志家のご協賛をいただき建立した。
夜は、ライトアップされた騎馬雄姿が国道55号線のバイパスからよく映えて見え、新しいシンボルとなりつつある。
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勢合
源平合戦の元歴2年(1185)2月18日、九郎判官義経は讃岐(香川県)の屋島に逃れた平家を討つために奇襲攻撃を敢行、摂津(今の大阪)の渡辺の浦を舟出し、折からの暴風雨に乗じて、わずか6時間で紀伊水道を渡り、この地に上陸した。
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天馬石
天馬石は、小松島市芝生町旗山の東北の角にあり馬の形をした岩である。 名馬磨墨と宇治川先陣争いをした名馬池月が石に化したとも、また、馬が天から下って化石になったともいわれている。
この石を踏むと、腹痛を起こすといい、現在は旗山の東北角に崩れた残石がある。
古代、バビロニア・エジプト・北西アジア・インド・中国において天馬石の思想があった。
中国の書に、「神馬まさに北西より来る、鳥孫馬を得てよくこれを『天馬』と名付けたが、大宛の『汗血馬』の益々壮なるものを得るに及んでは鳥孫馬を西極馬と名付け大宛馬を天馬という」とある。
古来軍事的優勢に立つためには、どうしても足の速い馬を熱望した。
騎馬戦闘にあたって前漢の時代からこの天馬の思想を固めていった。即ち天馬の子が千里馬、汗血馬を生んだとするものである。
「背をこするとゆう立雨に似た者は天から降ってきた馬の石」
(阿波名所図絵より)
天馬石の写真 [その他のファイル/44KB]
弦張坂
義経が勢合へ上陸し、屋島に向かって進軍していった順路を「義経街道」という。
田野の政所谷から、坂道を越えながら義経の軍勢が、峠の向こうの敵の伏兵を警戒して弓の弦を張って登ったことから、この地を「弦張坂」という。
弦張坂の写真 [その他のファイル/61KB]
仏足石
弦張坂にさしかかった左側に「弘法大師むつき堂」というお堂がある。これは、弘法大師が、むつき(産着)を納めたところである。
このお堂の前に「仏足石」があり、仏足石の傍らに「夜泣き柴」という樹が生えている。この葉をふすべて(燻して)、お大師さまにお祈りすると夜泣きは治るという。
仏足石というのは釈迦が入滅したときに残したという足形を石面に刻んだもので、インドには古くからこれを礼拝する風習があり、西域から暦を経て奈良時代に伝わって各地で模刻された。奈良の薬師寺にあるものは百済から伝来したものであると伝えられている。
諸大寺には所々見受けられるが、本県では珍しい。今日では信仰の対象になっていないが、長く保存したいものだ。
仏足石の写真 [その他のファイル/62KB]
弁慶の岩屋
芝生町大獄に「弁慶の岩屋」、「義経の岩屋」などの数多くの古墳があったが、山崩れによって崩壊し、現在は土砂が流出してしまって、巨石でつくられた石室だけが残っている。六世紀後半に作られた横穴式石室の古墳で、ここから「須惠器、まが玉、菅玉」が出土している。
地元の人々は、巨石でもって構築されていることから、弁慶なればこそ築いたものだと「弁慶の岩屋」と呼んでいる。天井には7.5トンから11トンもある大きな石を数個使用している。
以前は「弁慶の岩屋」の東前にすこし小さな「義経の岩屋」もあったが、戦時中に山を開墾し、どこかへ取り去られたと古老から伝承されている。
弁慶の岩屋の写真 [その他のファイル/75KB]
新居見城跡
源義経の屋島進攻に加勢した近藤六親家(こんどうろくちかいえ)の居住跡。天昇10年(1582)頃まで一族の居城であった。
「阿波志」には、天神山城とある。中世の山城。小松島市新居見に所在。築城年代は不明。新居見集落の南東方1Km。山麓の城趾碑から南西40mほどに位置する。標高40m。南方に突出している緩やかな山陵にあるが、西側は急斜面となっている。
城は25m四方の曲輪からなり、中は二段になっている。北側に空堀りがある。長曽我元親が侵攻してきたときには、板西城主・赤沢信濃守の一族が守っていた。
新居見城跡の写真[その他のファイル/47KB]
